走馬灯の中で走馬灯を見る

これは引き伸ばされた走馬灯の途中なのではないか

叙述トリックと手品と戦法

事の発端

少し前に横浜でカヤックの面接を受けてきた。

一次面接も二次面接でも、「自分の好みを用いたアウトプットが足りない」と言われた。(ここでいう私の好みは「叙述トリック」的なものとする)

それもそうだと思う。

私が大学で学んできたことはデザインであり、「叙述トリック」的な成果物など作っていないからだ。

私が作る「叙述トリック」はそれこそ小説ぐらいでしかない。

言ってしまえば、ユーザーを騙す「叙述トリック」的なものとデザインの相性は至極悪いのだ。

しかし、そう考えては発展も何もない。

叙述トリック」の何が好きなのかということを分解、考察して制作に繋げたいと思う。

 

叙述トリックに関する考察

叙述トリックの何が好きなのか

叙述トリック」の原体験としては伊坂幸太郎の小説が挙げられる。ラストで全てが繋がる心地よさは、読了後しばらく経っても忘れられない。

では、「叙述トリック」の何が好きなのだろうか。

すぐに思いつくのは「してやられた感」である。

うまいこと手のひらで踊らされてしまった時の悔しさは、なかなか日常生活では味わえない。

しかし、私は騙されることだけが好きなわけではない。自分で小説を書くように、他人を出し抜くことも好きなのだ。

騙し合いが好きであることに違いはない。「ライアーゲーム」とか好きで見ていた。

しかし、だからと言って騙されたままが好ましいわけではない。

重要なのは「ネタばらし」である。

 

「ネタばらし」という行程がなく、騙されたまま終了、なんてものはモヤモヤして仕方がない。

いつどこで気づかれずに「タネ」が仕込まれ、それによってどのような結末になったか、が重要である。これがなければ「してやられた感」はない。

「ネタばらし」 と「タネ」のセットで叙述トリックは成り立つのである。

 

 ネタばらし

「ネタばらし」はごく自然な形で行われるのが好ましい。それでいて、仕込まれた「タネ」全てについて言及されていることが望ましい。

更に言えば、ユーザーの行動そのものがネタばらしを導くとよい。

自身のアクションによって「ネタばらし」が行われた方が、自身の意思による行動を利用される方が「してやられた感」というものは大きくなる。

相手が全てを行い「騙される」場合は、ただ作業を見せられているに過ぎず、アンフェア感が生じる。

 

タネ

「タネ」はごく自然な形で、ユーザーにバレないように提示されるのが好ましい。それでいて「タネ」を理解するのに必要な情報が「ネタばらし」の前に提示されていることが望ましい。

上記が満たされないと「アンフェア感」を与えてしまう。フェアな状況でなければ理不尽さを感じてしまい、「してやられた感」はなくなってしまう。

 

叙述トリックの好ましい要素

まとめると以下の一文となる。

不自然さとアンフェア感のない「タネ」があり、自身の行動によってトリックそのものを完全に理解できる「ネタばらし」が行われる。

 

これがどういう理由で好ましいかを考えるため、もう少し抽象度を上げていく。

 

マジックに関する考察

マジックが好きな理由

叙述トリックに類似する好みは、「マジック」ではないかと思う。

小学生の頃から手品に興味があり、実際に本を買って練習していた。

 

手品は、「タネ」や「ギミック」が先に仕組まれており、その後演目のオチとして予想外の結果が残る。観客の自由意志が入っている方が騙された感覚が強くなるので、ステージものより観客参加型が好ましい。

演目を見たり参加することによって「してやられた感」を得るわけだがしかし、これは叙述トリックの構図とは少し異なる。

構造の理解、つまりは「タネ」の説明である「ネタばらし」がないのである。手品の解説本などで読む「ネタばらし」があって、同じ構図となるのだ。

 

私はこの「ネタばらし」が好きであるため、自身で本を買い演じる。

つまり、マジックに関しては、演目のトリックまでの理解を好ましいと感じているわけである。

 

順序の重要性

じゃあ、「こういうタネでこういうオチの手品やるから見てて」と言われて楽しめるかと言われたら、多分楽しめない。

あくまで、鑑賞して、驚いて、タネを理解する、という行程である必要がある。

私は手品を「現象の理解」として楽しんでいるということである。

 

じゃあ、演じながら「ここで先にネタが仕込まれていてね、こういうフェイクを挟んで、こういうオチになるんだ」と言われて楽しめるかと言われたら、多分楽しめない。

順序によっては楽しむことができないというのは、「してやられた感」が欠如しているからと思われる。

騙された上での「現象の理解」でなければ、それはただの勉強に過ぎない。結論に向かう道中に解説が行われても意味がないのだ。

小説も終わりがけの文章を読み「騙された」と思った後、ページを逆行し「現象の理解」をする。

現象、理解の順でなければならず、同時進行では楽しめない。つまりは、一度騙されなければならない。

「現象の理解」が行われなければならないので、手品も小説も「初見」でなければならないのだ。

 

行程の重要性

現象、理解が同時進行ではいけない理由は何か。

それぞれが単体では意味がないということである。

つまり現象、理解の順番というよりも、その間が重要なのではないだろうか。

「理解しようとする」という行為によって導かれる「理解」が重要なのではないか。

そう考えると、私はクイズ好きである理由にもなる。

問題が提示され、考えて、理解する。ここには「騙される」という行程は含まれない事が多々ある。それは自分で答えを発見する場合である。

「騙された」という感情は、導いた「理解」が間違っていたという「理解」によるものである。

つまりは、「騙される」ことが好きなのではなく、騙されたわかるまで「理解する」ことが好ましいのだ。

『あー、くそう、してやられた。そういう事だったのかー、まんまと騙されたわー』

「してやられた感」は騙されたと「理解する」ことによって生じる。

「騙される」というものは「誤った理解」と「正しい理解」の二度の理解を含む美味しい体験というわけだ。

確かに手品も、演目をみて「こうかな?」と予測という名の理解をし、実際に本を読んで「ああ、こうなってるのか」とさらなる理解をするわけだ。

しっくりきた。

 

叙述トリックと戦法

好きな戦法について

受け手としての好みは理解できたが、では私が行為者になった場合、なぜ叙述トリックが好みなのだろうか。

それを理解するのに「戦法」が関係あると思われる。

 

私は対戦ゲームなどで設置型を好む。

スマブラXではスネークをよく使用していた。ポケモンではどくびしを撒く。遊戯王では魔法トラップゾーンに大量のカードを伏せる。

つまりは先に「タネ」を仕掛けて戦うわけである。

特に、地雷などといった、仕掛けたことすら相手に分からないもので戦うのが好きである。

いってしまえば、相手を「騙す」という戦い方が好みなのである。

 

騙す行為の何が好みか

騙すというのは、手品でも叙述トリックの小説を書くことでも生じる。

しかし、手品の場合はトリックを丸暗記して演じる。これが手品が長続きしなかった理由の1つでもあるような気がする。

ここにある両者の違いというのは、「自分で考えているかどうか」ではないか。

どうやってバレないようにタネを仕込めば相手をアッと言わせられるかということを考える。そして相手が私のその思惑通りに引っかかることが好ましい。

つまりは「してやった感」が好きなのだ。

「してやった感」は騙すことに成功すると生じる。自分の「理解」は正しかったんだと「理解する」ことで生じる。

予測と現実が一致する、というのが好ましいわけである。

もし仮に騙すことに失敗しても「誤った理解」であると「理解する」、さらに理解に修正が入り新たな「理解」をうむ。

騙そうとする行為そのものが、「理解」を大いに含んでいるのだ。

まとめ

「騙す」「騙される」という行為には「理解」が含まれる。この「理解」が確かなものとなることが好ましい。

だから、「騙す」場合はそれが成功するのが好ましい。「騙される」場合はそれのネタばらしが好ましい。

私は「理解」ということが好きなのだろう。それは予測レベルでも好きだが、より確定的な結果としての「理解」の方が好ましい。

今、このテキストを書いて自分を理解できたような気がして好ましいというのも、根拠の1つになりうるだろう。

長々書いたが、簡単に言えば「アハ体験」が好きというだけのことかもしれない。

 

それと、私が好みを用いたアウトプットをするとした場合、なにも「騙す」必要まではない気がする。

相手の行動を予測し、それを見据えて実装するだけで十分に「理解」という行程を踏んでいる。制作過程で何をどう「理解」したか、そしてそれがうまく実装されているかが重要な気がする。

UIやUX、人間中心設計やプロトタイピングに興味があるのは、ユーザーの「理解」というものが根底にあるからではないかと考えた。

私の好きな「模倣」や「パターン」もまた「理解」というものを軸に成り立っているような気がする。

 

しかし、ユーザーの楽しさを求めるのであればやはり「騙された」もしくは「読まれた」と思わせる必要はある。後者の方が、デザインとは絡めやすそうである。

ユーザーの思考行動を「読んだ」、そして「読まれた」と思わせる制作物。

私が行うべきアウトプットは《ユーザーに「読まれた」と思わせる、両者の理解を意識した制作物》だろうか。

そう言えば確かに、私の「模倣」した制作物では、私の「理解」はあるもののユーザーの「理解」というものがなかった。

なるほど、ユーザーの「理解」に焦点を当てればよいわけだ。

《ユーザーがどう理解するかという点に着目し、かつそれを有効に活用した作品》

このようなアウトプットであればデザインの考え方も使えそうである。